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絵でみる 五代友厚の生涯
五代友厚の生涯 五代友厚の生涯

大阪の恩人     五代友厚の一生

四世・長谷川貞信氏による絵画9枚で五代友厚の生涯をたどる。(注)文章中の年齢表記は満年齢で表記をしています。
解 説:宮本 又郎 大阪企業家ミュージアム館長
大阪大学名誉教授     

21歳長崎遊学 21歳長崎遊学

安政4年(1857年)21歳
藩より選抜されて長崎に遊学

 幕府がオランダの海軍士官を招いて、航海・砲術・測量・数学などを学ぶ長崎海軍伝習所をつくると、薩摩藩主斉彬は十数名の藩士をこれに送り、友厚もそのうちの一人に選ばれた。これを契機に、友厚の長崎遊学期間は都合約11年。友厚は、その間に勝海舟、榎本武揚、本木昌造、税所篤、トーマス・グラバー、松本良順など、のち幕末・明治期において政治家、高級技術者、新知識人として活躍する人々と生涯の知友となった。長崎留学は友厚にとって外国の文明、知識に初めて接する機会であったが、人的ネットワークを構築する期間ともなったのである。

26歳上海密航 26歳上海密航

文久2年(1862年)26歳
身を水夫に扮して上海に密航する

 幕府船千歳丸が上海に派遣される際、薩摩藩士は乗船を許可されなかったため、五代は水夫として乗り込む。友厚はこの旅において、貿易の有利なこと、同地における西洋人の活動ぶりを知る機会を得るなど、後の生き方に大きな影響を受ける体験をした。同船していた長州の高杉晋作は「薩摩より五代才助という者が水夫と偽り同道していたが、これは薩摩の蒸気船の副将格のもので、どうやら藩主の命を受け、参加していたらしい。しだいに親しくなって、その論を聞くと、帰国したうえは、蒸気船の修復の目的で上海にわたり、大いに交易をはかるつもりだという」と記している。

27歳薩英戦争 27歳薩英戦争

文久3年(1863年)27歳
薩英戦争、友厚捕虜となる(その1)

 長崎にいた友厚は急ぎ帰国して、松木弘安(寺島宗則)とともに三隻の軍艦を率い、鹿児島湾に待機したが、英艦の急襲にあい捕虜となった。これを契機に砲戦開始。薩摩藩は砲台を破壊され、軍艦が撃沈されるなどの被害を受けたが、英艦隊も旗艦が損傷を受けた。五代は、敵指揮官に「陸上十万の精鋭は一人として生を欲するものがいない。しかも陸戦はそのもっとも得意とするところ」と言い、砲台の備えについても過大に伝えた。

27歳薩英戦争 27歳薩英戦争

文久3年(1863年)27歳
薩英戦争、友厚捕虜となる(その2)

 英国軍が上陸をせず横浜に引き揚げた裏には、五代らの巧みな弁舌があった。友厚はその後釈放されたものの、英国側と通じていたのではないかと疑われ、藩外での亡命生活を余儀なくされるにいたった。

29歳欧州留学 29歳欧州留学

慶応元年(1865年)29歳
ヨーロッパ留学(その1)

 元治元年(1864年)薩摩藩への帰参のさい、友厚は、攘夷は得策ではなく、開国して先進文明を摂取し、富国強兵をはかることが肝要と主張、このために、英仏両国への留学生派遣を藩府に建言した。これは早くも翌年(慶応元年)実現され、薩摩藩は家老の新納刑部を団長とし友厚を指導者とする、総勢19人の留学生を英国に送った。

29歳欧州留学 29歳欧州留学

慶応元年(1865年)29歳
ヨーロッパ留学(その2)

 この派遣団からは、寺島宗則、森有礼、吉田清成、畠山義成、町田久成、鮫島尚信など多くの明治の指導者が輩出された。友厚自身にとっても、成長途上にあったヨーロッパ資本主義諸国への約11カ月に及ぶ旅は、見るもの聞くものすべて驚くばかりであったに違いない。実業家五代友厚の資質はこの渡欧で大きくはぐくまれたのである。

31歳パリ万博 31歳パリ万博

慶応3年(1867年)31歳
日本のパリ万国博初参加に尽力

 留学中、友厚らはパリ万国博に出品する運動をおこした。日本からは幕府、薩摩藩、佐賀藩の三者が出品しようとしたので、主催者は一本化を進めたが、友厚は徳川と島津は天皇の下に同等だとして、これを拒否、薩摩藩は「薩摩琉球国太守政府」として独自の展示を行うことを主張した。
薩摩藩は岩下方平を団長とする使節団を派遣、薩摩焼、漆器、焼酎、泡盛、砂糖、鉱石などの展示を行った。幕府の方も檜造りの茶店を設け、あでやかな「ニッポン娘」(一説に江戸柳橋の芸者)のおもてなしを披露、好評を博したという。

32歳川口運上所 32歳川口運上所

明治元年(1868年)32歳
大阪川口運上所

 慶応4年2月(1868年)、友厚は外国事務局判事となり、大阪在勤となった。課せられた仕事は大阪川口運上所(税関)における一切の事務を管轄することで、大阪開港規則を定め、船舶停泊場の建設など港湾整備に腕をふるった。密輸や不正外国商人の取締にはとくに厳格であった。
明治2年(1869年)には、大阪港の浚渫を企画。友厚は、赴任以来、鋭意大阪の外国貿易発展策を講じ、まず外国船の碇泊に便利なように、毎日3000人の人夫を使役して百間(180m)四方、深さ2丈5尺(8.25m)の船舶碇泊場を造ろうとした。

42歳大阪株式取引所 42歳大阪株式取引所

明治11年(1878年)42歳
大阪株式取引所を設立

 明治11年(1878年)、株式取引所条例が発布されると、友厚は鴻池善右衛門、三井元之助、住友吉左衛門、山口吉郎兵衛、井口新三郎とともに、大阪株式取引所(現:大阪取引所)の設立を発起した。6月17日開業が免許され、8月15日、江戸時代に金銀相場会所が置かれていた北浜2丁目11番地において盛大な開業式が挙行された。資本金20万円、株主135人で、大阪の有力実業家のほか、渋沢栄一や益田孝など東京の実業家も参加した。同年には東京株式取引所が設立され、ここに東西呼応して証券市場が成立したのである。

42歳大阪商法会議所 42歳大阪商法会議所

明治11年(1878年)42歳
大阪商法会議所を創立し推されて会頭となる

 維新後大阪では旧来の商慣習が乱れ、経済活動沈滞の一つの原因となっていた。この状況を憂いた友厚は、確実なる仲間組合を設置するのが急務と考え、中野梧一・藤田伝三郎・広瀬宰平らと協議して、明治11年大阪商法会議所(現:大阪商工会議所)を設立、その初代会頭に選ばれた。
大阪商法会議所は行政当局に種々の建議を行ったり、あるいは諮問に答えて、業者の利益増進につとめた。ことに大阪の商慣習の正常化のため、株仲間の復活、商業手形の流通促進など旧慣習を重んじる建議をなしていることは、友厚が経済の実情を重んじるリアリストであったことを物語っている。

49歳生涯を閉じる 49歳生涯を閉じる

明治18年(1885年)49歳
9月25日 短い生涯を閉じる

 五代友厚は東京築地の別邸で長逝した。
 葬儀は10月2日、大阪で行われた。
会葬者は4300人余人、葬列は13町余に及んだという。幕末・維新の激動のなかで大きな打撃を被り、麻痺状態に陥っていた大阪経済の再生のために友厚は先頭にたって働き、新時代の実業家が進むべき方向を指し示した。
友厚自身は、死後100万円の借財を残したほどに、財閥を築くような経済的成功者とはなりえなかった。しかし五代が支払ったコストの上に、近代大阪経済は発展の基礎を築いたのである。その恩恵を私たちはいつまでも忘却すべきではないであろう。

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