陸軍の青年将校が高橋蔵相邸らを襲った昭和11年の2.26事件当時の大阪経済は、ようやく転回点を迎えようとしていた。
昭和元年の大阪市の生産額は約8億96百万円と東京市の約3億68百万円を抜いて全国のトップであった。しかし、軍事色、統制色が強まる中で、東京の産業が急テンポで重化学工業化を進めた結果、昭和10年前後には東京が大阪を追い抜いた。
その後、日華事変、太平洋戦争と進むにつれ、軽工業主体、自由主義をモットーとする大阪経済は漸次苦難の道を辿った。
大阪商工会議所もまた試練期を迎え、全国の経済団体でも珍しく一連の統制措置や中小企業整備について産業界の立場から、勇敢に政府当局へ意見を述べた。しかし、昭和18年3月、ついに商工会議所法が廃止され、商工経済会法が公布された。一府県一商工経済会設立の原則にもとづき、大阪・堺・布施の三商工会議所は合併、本部を大阪におき、堺・布施をそれぞれ支部とした。
商工経済会の事業目的は主に産業経済の統制に対する協力であっただけに、会頭は地元で銓衡のあと商工大臣の任名制により、また役員は大阪府知事の承認を要した。これまでの議員制度に代る評議員会も知事の承認事項となった。
こうして、産業界の自主的な団体活動は全く終りを告げ、統制法の周知、代用品発明等の製造奨励、さらに調査活動に専念することになった。
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●第13代会頭/昭和15年11月〜18年9月
●出身地/石川県金沢市、明治9年6月4日生れ
●職歴/日本銀行技師(明治30年)、大阪工業会理事長、日本建築協会会長など
●資料/日本経済を育てた人々(高橋弥次郎) |
●第14代会頭/昭和18年9月〜21年9月
●出身地/奈良県山辺郡、明治17年1月3日生れ
●職歴/東洋紡績会長、繊維統制会会長、関西経済連合会設立、大蔵・商工両省顧問、東大講師など
●資料/関桂三氏追懐録(関桂三氏追懐録刊行会) |
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